還暦おやじの趣味三昧

歴史とお酒、俳句と趣味にまつわる話をしていきます

河津観桜行~見頃・見どころ など(河津町)

ここの桜は早咲きで有名で、テレビでもでもよく出ています。
若い頃から行って少し早い春を感じたいなと思っていましたが、休日はすごい人・車、宿も高くて子育て時期には難しい出費、行くまでの渋滞や駐車場の満車に決心できず、平日は片道150㎞はあるので日帰りには自信が無く、宿泊にすると休みが中々取れないなどと、あれやこれやで行くことが出来ずにいました。
還暦を過ぎて、平日に旅行が出来る勤務条件となったので、昨年初めて河津町に桜を見に行き、今年が2回目です。
河津桜は、河津町の飯田勝美氏が1955年頃、河津川沿いで芽咲いているさくらの苗を偶然見つけ、庭先に植え、約10年後の昭和41年1月に咲き始めた花が最初だとのことです。当初、発見者の飯田氏の屋号から「小峰桜」と地元で言われてましたが、その後の調査で新種と判明、河津町に原木があることから、1974年に「カワヅザクラ河津桜)」と命名されました。
1975年には河津町の木に指定されました。
河津桜オオシマザクラカンヒザクラの自然交配種と推定されています。
ソメイヨシノと比べるとはっきりした色合いで、花びらもやや大きくて鮮やかです。
見頃の時期
見ごろの時期は、花ですので毎年微妙に違います。ネットで調べると、2月上旬に咲き始め中旬から下旬に見ごろ・満開を迎えるようです。
私が訪れたのは2月21日ですが、今年は暖冬で開花が早く、中には満開の木もありましたが、散り始めて、葉の目立つ木も目立ち、もちろんその途中の状態の木も沢山あるという状況でした。良い意味で、いろいろな桜を樂しめました。それに、私はこの散り始めの桜も好きです。鮮やかさは満開の時期に劣りますが、中心の赤が濃くなった花と葉のコントラストは悪くありません。仕事をしたあとの、少し疲れてはいるけれど何処か充実している人のようでもあり、何か「ご苦労さん」と声かけしたくもなります。
昨年も同じ日に行ったのですが、全体的に7~8分咲きの見頃で、満開の木もかなりある状況でした。花の一つ一つの力強さも違ったのですが、やはり一本の木全体、並木全体の華やかさが違いました。
見どころ
街のあちらこちらで桜を愛でることが出来ますが、まず観光協会から徒歩10分ぐらいのところにある河津桜原木です。あの飯田さんの最初の木です。花を見て木全体を眺めるには道路を渡らなければならないのですが、この道路は結構車が通るので、案内員さんの誘導通りに動く必要があります。

河津桜原木2024

近くの河津川の両岸には桜並木があり、遊歩道が「お花見ウォーキングコース」「菜の花ロード」等と整備され、桜の木の下を歩くことが出来ます。中には花に手が届くような木もあり、まさに桜の中を歩くようです。

ウォーキングコース1

菜の花ロードにはその名の通り、桜の木の下に菜の花が咲き並んでいるのですが、菜の花のほんの少し緑がかった鮮やかな黄色い色と河津桜のはっきりした明るいピンク色のコントラストがとてもきれいです。

河津桜と菜の花2024
河津桜と菜の花2023

橋から眺める桜のある風景も中々素晴らしいものです。中でも豊泉橋は欄干が朱色に塗られ、日常からの離れた感をより引き出してくれます。
訪れた日は、平日で天気も悪く寒い日でしたが結構な人出で、ウォーキングコースの出店などもあって賑わっているあたりなどは、人並みにもまれるような感じでした。
到着した時間帯は人もそんなに多いと感じなかったのですが、観光バスもどんどん到着していたようで、だんだんとこのような状況になっていったようです。
午後は、河津七滝にもいったのですが、勉強不足とあいにくの雨で駐車場近辺を歩いただけで帰りました。

河津七滝2024

駐車場
横浜から車で9時頃着きましたが、観光協会前の駐車場は既に満開を過ぎているためか、まだ余裕がありました。昨年は、訪れたのが満開に近い時期だったのと、着いた時間がもう少し遅かったこともあり、駐車待ちの車が出始めている状況でした。
平日だとこんな感じですが、休日は朝8時30分とか9時ごろ満車となってしまうようです。

花散るや川面に渡る風寒し

小田原・曽我梅林〜富士山をバックに素晴らしい景観でした

同じ県内に居住していていたのに、有名なのは知っていましたが、今まで行ったことがありませんでした。子供が喜ぶようなところばかりに、目がいっていたからからかもしれません。
そんな曽我梅林に初めて行ってきました。
9時半ぐらいに到着しましたが、駐車場は半分から3分の2位埋まっていました。
駐車料金(500円)を払うと、地図が貰えました。そんなに地図音痴ではないと思っていましたが、しばしば自分のいる位置がわからなくなりました。現地に案内板もあり、それと見比べながら歩きました。
駐車場の近くには「十郎」という種類の白い花の梅が多く、その次に目についたのが桜のように枝垂れている「しだれ梅」です。
富士見ポイントという場所がありますが、そこに咲いている白い花は「白加賀」です。この品種は、江戸時代から関東地方を中心に栽培されている梅の品種で、花が白く一重の大輪花を咲かせます。花は観賞価値があり、果実は大粒で皮が厚く果肉がしっかりしていて、梅酒や梅干しに向くということです。
その他、少ないながら紅梅や蠟梅もありました。後者は、早く咲くようで、大半の花は枯れて色が変わっている状況でした。

枝垂れ梅
紅梅
<>
蠟梅

平日なので、人出も少なくのんびり歩けるかと思っての訪問でしたが、そうであったのは最初のうちだけで、徐々に人が増えて、特に売店やもようにもの会場あたりは、ごった返し感さえありました。駐車場も帰るころにはどこも満車のようでした。
そんな中で富士好きの私としての嬉しい誤算は、富士山やそれをバックにした梅林が非常に美しかったことです。
天気にも恵まれ、雲一つない状況でした。小田原からこんなに富士山が大きく見えるとも考えていませんでした。

梅林や空真青なる富士の山

曽我梅林と富士

お昼ごろ帰ることにしたのですが、当日は2月にもかかわたず、気温が20度くらいあり、歩き回っているうちに暑くなり、駐車場の近くにある「小田原牧場アイス工房」でアイスを食べてしまいました。400円のジェラードを10数種類の中から好きなチョコ関係ののものを一つ選んで食べたのですが、余りチョコチョコしていなくて、ミルクの風味も味わえました。妻は梅酒のジェラートを選んでいました(私は運転があるのでもちろん味見もしていません)。日陰の椅子で食べ始めたのですが、やはり2月でその内寒くなってきてしまい、途中で日向にあるベンチに移動してしまいました。
帰りに食べログで事前に調べた近くの「丼万次郎(どんまんじろう)」という食堂に寄って、小田原地魚5色丼を食べました。評判通りでネタが大きくかつ厚くて、各々の魚の味をしっかり味わえる一品でした。アジ、カンパチ、たい、ビンチョウマグロ、サワラ(だと思います)、どれも
デザート付きフルコース(前に食べたジェラート)で満腹となり、家路につきました。
観梅にゆったりした時間も過ごせ、満腹にもなり充実した一日でした。

20週俳句入門

還暦になり少し時間が出来たので、今まで行きたくても中々行けなかったところへ少しづつだけど、行けるようになってきました。
その記念というか、思い出に何か文章とかを残したいと思っていたのですが、文才もなく何か特徴が欲しいと思っていました。
絵心でもあればいいのですが、生憎それもなく前々から興味を持っていた俳句を始めることとしました。旅先での風景や思い出、歴史的な出来事等を俳句に残せないかと思ったのです。
夏草や兵どもが夢の後
有名な芭蕉の句ですが、これほど名句にならなくても、凡人レベルでも構わないので、旅先の風景を歴史等を交えながら詠めたらいいなあ、と感じたのです。
たまたま、kindleで目に留まったのがこの本でした。数ある入門本で何故この本にしたのかをよく覚えていないのですが、「0から俳句を始めたい」というチャッチフレーズ、20週という決して短くもないし長すぎもしない期間設定に「信用できる」と感じたのかもしれません。
テレビでおなじみの夏井先生の本も、この本を読みながら読んだのですが(この本は一週間で4つの俳句を暗記せねばならず、還暦を超えた頭ではすぐ覚えられないのでどんどん読み進めることが出来ない)、本の中で夏井先生も勧めていることが分かりました。
また、毎週俳句を暗記していくうちに、この本に関するブログも読むようになり、4つの型で詠むという考えも知りました。
実は、まだ20週のうちの8週目で、ようやく一つ目の型にたどり着いたところです。
ポイントは、
①上五に季語を置き、「や」で切る
②下五を名詞止めにする
③中七は下五の名詞のことを言う
④中七・下五はひとつながりのフレーズである
⑤中七・下五は、上五の季語とまったくかかわりのない内容である
ということです。
俳句の大半は配合の句といって、季語とそれ以外のものがぶつかり合って、幅広い連想を呼び起こす仕組みということですが、まさに、「中七・下五は、上五の季語とまったくかかわりのない内容で」、その二つがぶつかりあって、「幅広い連想を呼び起こす」ようです。
先程の、「夏草や…」の句もそうであるかもしれません。
私が、この型を見習って詠んだ句は以下の通りです。
五月雨や武人癒せし寺の庭 煕史
実は五月雨は、この句の前提となる和歌にあるので「まったく」かかわりないかについては心配です。
この句は、滋賀県湖西の朽木・興聖寺の庭園を読んだ句なのですが、戦国時代に戦乱の京から逃れてここにも居た足利将軍13代義輝が、京都に戻って当時周辺で力を持っていた三好・松永らによって攻め殺されたときに詠んだ辞世が
「五月雨は露か涙か不如帰我が名を上げよ雲の上まで」です。ここから拝借した「五月雨」です。
その他は、ポイント通りになっていると思うのですが…
この本の3週目に「雅号を持つ」ことが書かれていて、小生は「煕史(ひろし)」としてみようかと考えました。
大好きな司馬遼太郎さんの「国盗り物語」において、朽木・興聖寺の庭園で将軍義輝と明智光秀が出合いことになっています。私はこの小説がドラマ化された時の近藤正臣さんの光秀が忘れられず、彼の夫人「煕子」から字を借りました。また、歴史に関する書物、神社仏閣、城が好きなので「史」という文字を使いました。

興聖寺庭園

越前 一乗谷 400年眠っていた城

司馬遼太郎さんの「国盗り物語」で、一乗谷明智光秀が将軍足利義輝に対して、北国の雄である朝倉氏の支援を依頼するために訪ねたところから出てきます。
「月さびよ明智が妻の咄しせむ」と芭蕉は読みましたが、光秀の暮らし向きは厳しかったようです。
そんな時、夫人が自らの黒髪を売って光秀の面目を保たせた、ということを詠んでいます。
一乗谷は、二列の小さな山脈に城を築き、山脈ぐるみで城郭化し、谷の出入り口に二つの城戸を設けることによって、守りを固めた城でした。そして、山々に囲まれた2㎞ばかりの谷地に、朝倉氏の居館や武士たちの屋敷、町人の店、職人屋敷、寺院等が並んでいました。
この城(街)は、越前平野の中心からやや離れていますが、国内での争いや隣国加賀の一向宗たちとの抗争があり、守りの固いところに本拠地を置く必要があったようです。
中心から離れているといっても、近くの足羽川九頭竜川を伝って三国湊にアクセス出来て、さらにそこから日本海側の各湊と交易をすることが出来ました。また、谷地を通る朝倉街道は京都に通じ、美濃に通じる街道も近くにあるという交通の要衝でもありました。
この地の利を生かして、北は蝦夷地から南は琉球まで交易をしていたようです。この街の繁栄が伺えます。
当時首都の京都は応仁の乱以降の混乱・戦乱によって荒廃し、貴族・僧侶・商人たちは地方の有力守護大名を頼って各地に下向していました。その一つが越前・一乗谷です。このため、文化水準も高く北ノ京などと言われていました。
光秀が訪れた当時、朝倉家の当主は義景でしたが、当家はその四代前の敏景(孝景)の時に越前の守護職を主家である斯波氏から奪取する下剋上をなしていて、北陸の雄として足利将軍家に頼りにされる存在でした。
光秀も、朝倉家に将軍家を助けてもらいたいと考えてここに来ていたようですが、中々態度をはっきりしなかったため、後に足利義昭はここから岐阜の織田信長を頼っていくようになりました。
その後、義景は信長と対立し、攻め滅ぼされてしまいます。
一乗谷の繁栄は約100年のものでした。
元亀4年(1970年)に朝倉氏が織田信長との戦に敗れ、街はその軍勢によって焼かれてしまいます。人々はこの地を田畑として利用し、約400年土の中に埋もれていました。当時の姿が少しづつわかりだしたのは、1967年に始まった発掘調査以降のことです。
今現地を訪れると、館の跡、街並み等が復元されています。きれいに復元されているのですが、やはり人はまばらです。当時1万人程度の人が住んで、都からも貴族達も集まってたりして、北ノ京とも呼ばれて賑わっていたことを思うと、今の静けさには一抹の寂寞感が漂います。
次の句は、この寂寞感を詠んだものです。

行く秋や土に眠りし北ノ京 煕史

一乗谷・唐門
一乗谷・朝倉館跡

近江 朽木 興聖寺庭園~戦国時代の絶え間ない争いに一服の清涼を与えた庭園

 

足利義輝(1536~1565年)といっても歴史好きな人でもなければ、知らないかもしれません。

室町幕府の13代将軍です。この方の時代、将軍といってもその威勢は地に落ちていた、といっても過言ではありません(もちろん、何らかの影響を限られた地域や大名に対して及ぼすことはあったのですが…)。

幕府は京都に本拠を置いていましたが、数代前から将軍が安定して京都に居ることが出来ない状況が続いていました。下克上の戦国時代です。義輝も11歳で父親から将軍職を引き継いだ頃を含めて、父である12代将軍(義晴)とともに、度々近江(滋賀県)を中心に難を逃れていました。

朽木に滞在した期間も長かったようです。義輝は、どんな気持ちで京から離れた朽木で過ごしたのでしょうか。京都奪還に燃える気持ちもあったでしょうが、将軍でありながら、やりたい政治の出来ないもどかしさ、人生が思うようにならないせつなさも感じていたでしょう。若くして亡くなった義輝ですが、当時の人たちは早熟でいろいろ感じていたはずです。

当時から朽木にあった庭園が、この興聖寺庭園です。父である12代将軍義晴がここに逃れてきたとき、当時従っていた管領細川高国がその気持ちを慰めるために作庭したといいます。義輝もここに逃れてきたとき、恐らくこの庭園を眺め傷ついた心を癒してもらったことでしょう。

義輝という人は、将軍でありながらただの貴人ではありませんでした。当時剣豪として名をはせていた塚原卜伝の弟子として武術に優れ、武士の棟梁たる将軍として武威を示すことの出来る武人でした。

その生涯は、戦乱に明け暮れたものでした。最初は細川氏と争い、その後は、細川氏の家来とそのまた家来でありながら、京都・大阪辺りで勢いを増し、主君である細川家を凌駕した三好・松永と争いました。そして、最後も三好・松永の勢力に二条御所を攻められての戦死でした。

その時に詠んだ辞世が「五月雨は露か涙かほととぎす我が名をあげよ雲の上まで」という句です。降りしきる五月雨は、何事もなできずに死にゆく私のようにはかなく消えゆく露だろうか、それとも私の無念の涙だろうか、ほととぎすよ、私の名を高めておくれ、雲の上まで、と詠みました。

ここは小学生の頃、司馬遼太郎さんの「国盗り物語」で知った場所で、「街道をゆく」でも紹介されていて、訪れたい気持ちが大きかったのですが、神奈川から遠く、仕事や生活で行くことが出来ずにいました。還暦を過ぎて、少し時間が取れるようになったので、ようやく願いを叶えることが出来ました。

次の句は、幼いころから憧れていた、足利義輝も眺めたであろうこの庭園を見ながら、彼の気持ちを推しはかって詠んだものです。

 

五月雨や武人癒せし寺の庭 煕史

 

自らの境遇に嘆いて、涙していた(五月雨)将軍義輝(武人)も眺め、その気持ちを癒した庭なのだなあ、という気持ちで詠みました。

 

興聖寺庭園

興聖寺庭園2

 

三千盛

 

司馬遼太郎国盗り物語の世界を訪ねて、岐阜県(美濃地方)に行ってきました。

斎藤道三が親子二代で国盗りをした、明智光秀明智氏の居城のあった、織田信長岐阜城を足掛かりに天下取りに飛躍した、あの場所です。

三千盛は、岐阜県多治見市にあるお酒の名前そのままの三千盛という名の酒蔵さんのお酒です。安永年間という江戸時代後期の創業から約250年続いています。

私は「銘醸」という銘柄をいただきました。醸造用アルコールが添加されている普通酒で、アルコール分15~16%、日本酒度+16度とかなりの辛口です。私は熱燗で呑みましたが、熱燗・ぬる燗・常温で楽しめるとのことです。

精米歩合が60%で吟醸酒のレベルまで米を磨いているからなのか、口に含むと最初は吟醸酒と思わすように爽やかで、スッと抜けるような感じです。後味はこのお酒の説明だとキレがあるということで、変な雑味は残りません。ただ、そのまま泡のように消えてしまうというわけではなく、その後しっかりお酒の味が口の中を引き締めるように感じました。

岐阜では居酒屋さんでした。6月で鮎を食べることが出来る季節だったので塩焼きにかぶりつきました。その他に鶏肉とキャベツ等野菜をみそ味で炒めた(地域や家庭によって、醤油味や塩味もあるようです)地元料理の鶏ちゃん、棒葉みそ焼等どの料理にも合った気がします。

家で呑んだ時期は、丁度正月で、おせち料理をつまみに、という感じだったのですが、かまぼこにもなますにも田作りにもしっかり合い、味を引き立ててくれました。

 

 

櫻正宗

 

横浜野毛の居酒屋さんに武蔵屋というお店があり、そこで出されていたお酒です。

5時開店ですが、仕事が終わって駆けつけるといつもお店はお客さんで一杯。最初のお客さんが引けるのを他の店で呑みながら待って入店していました。

ご高齢の姉妹で切り盛りしていて、2015年に惜しまれながら閉店。

お酒は3杯までしか呑めません。つまみもお品書きはなく、玉ねぎの酢漬けにおから、タラ豆腐、納豆、お新香の5品が定番でした。

燗酒を土瓶からグラスに表面張力ギリギリに注いでくれる。

そんなお店で味わった櫻正宗

最近、ネットで注文することを覚え(従来はスーパーや専門店で手に入るお酒を味わっていました)たので、早速注文。

お燗をしてみました。味わいは「やや辛口」で、呑み方は花冷え(10度)から上燗(45度)が推奨されています。お酒の表現はよくわからないのですが、香りはフルーツ系というよりほのかにふくよか。味わいは、キレが感じられて呑んだ後にクセが残らないため、料理の味を邪魔せず、引き立てます。吟醸酒のようなフルーティ感ではなくしっかりしていて、後味はスッキリ。

武蔵屋さんで食べたおから、タラ豆腐で呑んでみると豆腐やタラの淡い味が浮かびあがってきました。

おでんや板わさでも、しっかりつまみの味を引き立ててくれました。