還暦おやじの趣味三昧

歴史とお酒、旅と趣味にまつわる話をしていきます

宮島紀行

交通

新幹線で新横浜から約3時間半で広島駅に着きます。そこから宮島の入り口である宮島口駅まではJR山陽本線広島電鉄で行くことが出来ます。JRは約30分、広電だと約75分かかります。直接行くのであればJRがおすすめで、市内を観光して、それから宮島に向かうのであれば広電が合っています。
宮島はその名の通り島で橋はかかっていないので、船で渡る必要があります。ちなみに広電の宮島口駅はフェリー乗り場のすぐ近くですが、JRの駅からは人が多いため5分程かかります。
宮島までは、JR西日本宮島フェリー宮島松大汽船のフェリーにに乗ることが出来ます。両社の改札は隣どうしで、どちらも交通系ICカードで乗船可能です。
両社を合わせると便数も多く、余り待たないで乗船することが可能です。
料金はどちらも片道200円・往復400円(中学生以上、小学生は半額)で、行きは宮島訪問税の100円が加算されて300円となります。
乗船時間は10分程度で、席に座るとあっという間という感じです。

厳島神社

桟橋から海沿いに歩いていくと正面に厳島神社の大鳥居が見えてきます。
そのまま進むと御笠浜ですが、ここからは干潮時であれば砂浜におりて、大鳥居まで歩いていくことが出来ます。満潮時であれば、海に浮かぶ幻想的な大鳥居を見ることが出来ます。どちらもおすすめです。
この大鳥居は高さが16.6m、重さ60tで木製の鳥居としては日本最大で、国の重要文化財に指定されています。
このような大きさ、重さなので、この鳥居は2本の主柱に加えて4本の袖柱で支えられています。
柱は埋められていません。松の丸太を打ち込んで地盤を強化した上にのせられているだけです(千本杭)。鳥居の上の笠木と島木が箱状になっていて中に小石が詰め込まているとのことです。鳥居自体を重くして、土台もしっかりさせることで自分の重さだけで立っていられるのだそうです。
大鳥居を見て海岸沿いをまたしばらく歩くと厳島神社の入り口です。
昇殿料は大人一人300円で、宝物館にも行く予定がある場合はセットで500円となります(宝物館だけの拝観料は300円なので、セットにすると100円お得です)。
神社は入り口と出口が別々になっていて一方通行です。
入ると最初に客(まろうど)神社があり、そこで多くの人が参拝します。
その奥に本殿、大国主命を祀る大国神社、菅原道真公を祀る天神社があり、本殿は皆さんが参拝しますがあとの二つは少し順路から入ったところにあるため通り過ぎる人もいます。
神社内の見どころですが、皆さんはずさないのが海に突き出た火焼﨑(ひたさき)から見る大鳥居です。ここで記念写真を撮る人が多くて、列が出来ていることが多い印象です。
その他、順路に沿って鏡の池(干潮時)・卒塔婆石・康頼灯籠・朝座屋・揚水橋・本殿・高舞台・平舞台・右楽房・左楽房・反橋・能舞台などがあります。

宝物館

厳島神社の出口を出ると、すぐ左側にあります。
神社に伝わる国宝・重要文化財の一部が展示されています。建物自体も国の登録有形文化財です。
国宝の「平家納経」のほか、刀剣類・面・扇・絵馬など平安時代から江戸時代までこの地に伝わる宝物が展示されています。神社参拝の後でこちらも拝観すると、理解が深まるのではないでしょうか。

大願寺

宝物館を出た正面にあります。
高野山真言宗のお寺で、日本三大弁財天の一つである厳島弁財天が祀られています。ちなみに他の二つは江ノ島弁財天と竹生島弁財天です。
鎌倉時代初期に再興され、厳島全体の寺社の修理造営を掌る「普請奉行」を務めていました。
厳島弁財天(秘仏)のほか、弘法大師薬師如来阿弥陀如来など多くの仏像が伝わりますが、もとは島内の別の寺院にあったところを明治初期の廃仏毀釈の時にこちらに移されたものも多いようです。

大聖院

大願寺を出たら、宝物館の向かって左側の道をまっすぐ5分ほど歩くと大聖院に着きます。
真言宗御室派(総本山仁和寺)の大本山大聖院。宮島で一番古い寺院で、空海が帰国後に弥山で修業を行い、大同元年(806年)に開基しました。
明治維新までは神仏習合でしたので、当院は別当寺として厳島神社の仏式祭祀を司っていました。
こちらの本堂地下では戒壇めぐりが出来ます。
戒壇めぐりとは、狭くて暗い場所を通り抜けることによって穢れが祓われて生まれ変わるという修行のことです。暗所の道をたどることによって人間の心身を清め菩薩に導かれて必ず極楽へ往生することが出来ると言われています。
また当院の大師堂の下にある遍照窟では、四国八十八ケ所霊場の本尊が安置され、本尊前に各霊場のお砂が埋めてあり、その上を歩くと、四国を遍路したのと同じ功徳があるといわれています。
大師堂周辺にある一願大師は、お願い事をひとつだけ念じることによって、叶えられる、尊い大師です。

弥山

弥山(みせん)は弘法大師空海遣唐使の使命を終え、京の都へ帰る806年に開創した霊山。
空海は、護摩を焚いて100日間に及ぶ求聞持(くもんじ)の秘法を修したといわれ、弥山山頂にはこのとき使われた火が「消えずの火」として守り継がれている。
麓から歩いて登山することも可能ですが、多くの人がロープウェーを使っています。
ロープウェーは途中の榧谷駅で8人乗りの客車から30人乗りの客車に乗り換えますが、案内もあり心配いりません。
私が訪れたのは平日でしたがすごい人で、下りてきたときには乗車1時間待ちの状態となっていました。
終点の獅子岩駅近くの展望台からもいい眺めを楽しむことが出来ますが、頂上まで行くとさらに良いです。
20分ほど歩くと本堂と霊火堂がある場所に着きます。
霊火堂にはお大師さんが修行した1200年前から燃え続ける聖火があり、ここにかかる大茶釜の霊水は万病に効くことで有名です。
さらに大日堂、巨岩のトンネルを抜けて山頂・展望台に着きます。
山頂からの眺めは絶景で、瀬戸内海の島々や対岸の広島市だけでなく天気の良い日は四国連山を望むことが出来ます。
初代総理大臣の伊藤博文が「日本三景の一の真価は頂上の眺めにあり」と感動したそうです。

実家売却(整理)始末記

1.実家売却を決める

実家を売却することになりました。
赤ん坊の時のから結婚まで30年近く暮らした家です。
相続をしたのですが、駅からも少し距離があるため私も子供たちも住みません。車庫の屋根部分の一部もはがれています。建物を管理し続けることは困難です。
駅から離れているのでアパート等に建て替えることも難しいですし、少子化が進むとますます処分が難しくなるでしょう。相続3年以内なら特例が使えます。いろいろ考えて、売却することにしました。

2.手続き進む

取引銀行に実家処分の話をしたところ、系列の不動産会社を紹介され、その時点で売却の決意が出来ていたわけではなかったのですが、業者の担当者は熱心で、買い手を見つけてくれました。条件として引き渡しまでに、当然のことでしょうが家の中や庭を空にしたければならなくなりました。
両親の晩年は、終活などという言葉も一般的ではない頃で、二人が亡くなった時に家の中ははほぼ全てのものが置きっぱなしという状況でした。戸建住宅は2階建等にすることで、広く使うことが出来ますが、広くて物が置けるので、こまめな整理・廃棄をする必要が小さくなり片付かなくなることが難点です。
両親はホームに入居していたので、2人が亡くなった時、家の中は埃がすごく、30分以上歩いたり探し物をするだけで喉がおかしくなったと感じるほどでした。大量の家電・家具・雑誌・布団・衣類等が置き去りになっています。このような状況に私はびびって、最低限の片付けだけして、あとはほぼ手付かずでした。引き渡しまで僅か4ヶ月しかありません。仲介会社が整理業者を紹介してくれましたが、何があるか分からない中でいっぺんに処分することに決心がつきません。
以前から実家の整理について思い悩んでいたので、遺品整理業者の存在は知っていましたが、ネットで調べたりすると、いろんな業者がいるので複数の業者から見積もりを取れとか、廃棄物処分資格等の確認をしろとかいろいろ注意すべきことが書いてあります。見積もりをお願いするには実家に入らなければならないですし、それを何回も行うということになると二の足を踏んでいました。
しかし、4か月以内(これも当初3か月以内というのを延ばしてもらってものです)に絶対にやらなければならないという状況に追い込まれました。
仲介業者に紹介された整理業者3社と以前から調べていた市内の業者に見積もりをお願いすることにしました。
前3社は鍵を預けて業者のペースでかってに片付けをおこなうというスタイルで、後者は本人が鍵を開けてまた希望したものを取りおいてくれるというスタイルでした。結局、何残すのかも決められない状況でしたので、後者の業者にその場で相談していくというスタイルにしました。金額的に大きな違いもなかったことも理由です。
1日3〜4時間の作業で、延べ16人・6日かかりました。
取っておいたものは、結局私と弟、それに孫達の写真を整理したアルバムがほとんどでした。父親の几帳面さに感心するとともに、親の愛情を改めて感じました。
業者の人達が作業している間、時間があったので、近所を久し振りに歩きました。実家は60年くらい前に私鉄が開発した分譲地の中にあるのですが、付近は3〜4軒に1軒は所有者が変わっていたり、空き家になっていました。一緒に遊んだ人達も、その存在はほとんど分かりません。地主の屋敷かと思った大きな敷地も介護施設になったりしていて、時の流れを感じました。

3.その他

売却に際しては隣地との境界線を確定しなければならないので、仲介業者から紹介された会社に依頼しました。測量会社が作業にかかる前に、5軒のうち所有者が遠方に住まわれている方以外にご挨拶に伺い、了解を得ていたつもりだったのですが、業者が実際に作業にかかると、このうちの一軒から「ハンコ代」を請求されたのには少し驚きました。業者からは、まれではあるがないことはない、という話で払わなければ売却を進められないので支払うこととしました。
それと片付けを始めたところ、別の一軒から「蔓が越境して虫がつくので何とかして欲しい」という苦情が入ったため、そちらへの対応も行いました。

実家を手放すのですから、寂しい気持ちも当然あったのですが、家の内外の片付けが大変でその気持ちも紛れてしまったのは良かったかもしれません。
親が最後を迎えた時の対応も徹底的な延命を行わなかった対応が良かったのかとか、いろいろ考えてしましました。

白骨温泉~温泉も良かったけど特に日陰は涼しくて最良の避暑になりました

最初、すごい名前だなと思いました。
上高地の近くで有名な温泉地ということで目にとまりましたが、「骨」とは。
その昔は温泉の成分が湯船(浴槽)に付着して白くなることから白船温泉と呼ばれていたのですが、大正年代に中里介山の長編小説「大菩薩峠」の中に「白骨の巻」という件がありまして何時しかその名前の方が定着たという説や、当地の湯の成分(石灰分)が湯船に付着してその文様が白い骨のように見えたことから名づけられたという説があるようです。
泉質は、含硫黄(カルシウム・マグネシウム・ナトリウム)炭酸水素塩泉(硫化水素型)で、湧出時には無色透明なのですが空気に触れると乳白色になるのだそうです。弱酸性で中性に近い肌触りで、硫黄と炭酸成分が多く血管を拡張して体を温めます。
実際に湯に入りに行きますと、確かに乳白色で少し硫黄のにおいがします。宿の注意書きには、金属類は変色するとありました。湯温も丁度良く、硫黄のにおいも温泉らしさを感じさせてリラックス出来ました。朝、洗い場のない露天風呂に入りそのまま体を洗い流さなかったのですが、その日中自分の体から硫黄のにおいがしているのを感じました。
宿は、湯元齋藤旅館に泊まりましたが部屋の前に滝があり、マイナスイオンを感じましたし、滝や川面を渡る涼しい風が窓から入ると気持ちよく、この夏久しぶりにクーラー無しで心地よい時間を過ごすことが出来ました。本当にホッとし、リラックスすることが出来ました。
ここの温泉は飲泉も出来たようですが、下調べ不足で飲めなかったのは残念でしたが、宿の朝食に出た温泉粥は美味しく前夜やや多いお酒を飲んだ身には染み入るように感じました。
標高の高い著名な温泉地に避暑に来ましたが、とてもゆったりとした時間が過ごせて、是非また来たいと思わせる旅でした。

始めての上高地ハイキング

上高地へ行く

朝5時過ぎに横浜の自宅を出発し、圏央道・中央道・長野道を経由して10時過ぎにさんどの駐車場に着きました。
予定ではここからバスで宿泊予定の大正池ホテルに向かうことにしていたのですが、目指した第三駐車場ではなくさわんど大橋近くの駐車場を利用したため(初めてで一番手前で案内の人がいた駐車場にとめてしまった。第三駐車場が満車だったかどうかはわかりません。)、横にあるバス停(さわんど大橋)が始発ではなく満員ですぐに乗れないかもしれない(バスターミナルまで徒歩15分ぐらい)と係の人から聞いてタクシーを使いました。タクシー代は固定で4,200円でした(メーターは5,000円を超えていました)。

ハイキング開始

大正池ホテルでは、宿泊者の荷物をチェックイン前に預かってもらえるサービスがありました。
そこで荷物をホテルに預けて出発。まず石を組み合わせた階段を下りて大正池に出ました。朝もやが有名ですがお昼前の時間で、翌朝のお楽しみとなりました。池の向こうには、今でも噴煙をたなびかせる活火山の焼岳がくっきり見えます。ちなみに、大正池大正4年の噴火によって梓川がせき止められて出来た池です。

大正池を後にして遊歩道を田代池に向かいます。田代池は多くの人が鴨などを写真で撮ったりしていて賑わっていました。そして気付いてみると、多くの人たちの中に日本人が私達夫婦だけであることに気づいてびっくりしました。

歩く人たちの足元を見ていると履物にバラつきがあることに気づきました。ガイド本などには、通路が整備されているんで使い慣れたウォーキングシューズが勧められていましたので、河童橋までの区間はウォーキングシューズが一番多いようでした。それでも中にはサンダル履きの人も結構いて驚きました。ちなみに翌日河童橋から明神池までのコースを歩きましたが、ここではトレッキングシューズを履いている人が多数派のようでした。
途中で人だかりが出来て写真等を取っている場所がありました。先を急ぎたいと考えみんなが何で集まっているのか、その場を確認せずに通り抜けたのですが、後で掲示板を見ると熊が出てたようでした。やっぱりいるんだ、と少し怖くなり熊よけの鈴がリュックにかかっていることを改めて確認しました。
田代橋までは、梓川コースが通行止めだったので林間コースを使いました。田代橋からは、橋を渡り梓川右岸コースを歩き、途中ウェストン碑などを見ながら河童橋を目指しました。ゆっくり途中写真を撮りながら歩いて、約70分で河童橋に着きました。
河童橋の周辺はホテルやレストランも多いのですが、平日だというのにそれらに行列が出来るほど多くの人で何か街中にいるようでした。また、インバウンドとよく言われていますが、上高地は全体に海外からの旅行者と思われる人たちの方が日本人より多いのではないかと感じました。

もうお昼過ぎでお腹が空いていましたし、行列に並ぶのも嫌だったので、行列は出来ていなかった橋際の五千尺ホテルの1階にある「Sweets cafe & Bar LOUNGE」というお店に入り、スイーツではなく(本当はスイーツが有名なのですが)安曇野放牧豚のソーセージが使われたホットドッグとスープでお腹を満たしました。
土産ショップを見て歩いて約5分のバズセンターに移動しました。ここでは翌日のために荷物の預かり所を確認したり、やはり土産ショップを見たりししました。
明神池は翌日に回し、ここで帰途に着きました。今度は梓川左岸コースを歩きます。木々がよい塩梅に木陰を提供してくれていて、風が少し吹くと心地よく、日差しは強く日向では暑いのですが、朝からのドライブと10,000歩近いウォーキングで疲れていたはずなのですが、気持ちよく歩くことが出来ました。途中、上高地帝国ホテルのロビーラウンジでケーキセットを食べて疲れを取り、宿泊する大正池ホテルへ向かいました。
このホテルは新月に近い星の良く見える日に「星降る夜空の鑑賞会」を行ってくれます。私は前半の館内での説明会だけに参加し、その後の外での鑑賞会は残念なことに疲れと夕飯のアルコールで寝てしまって参加できなかったのですが、ホテルのホームページを見るととても綺麗だったようです。
翌朝は6時過ぎから池のほとりに下りました。昨日は見れなかった朝もやを見るためです。水面を靄が立ち込めますが、少しの時間にその姿を変えていきます。
昨日の河童橋周辺のようなことはありませんが、池のほとりには入れ替わり立ち代わり人の姿が途切れませんでした。バスも5時から動いてますし、皆さんよく知っていらっしゃるようです。

河童橋から明神池へ

ホテルをチェックアウトした後、ホテル前のバス停からバスで上高地バスセンターまで行き、そこで荷物を預けて歩き始めました。
7月の集中豪雨で、左岸歩道が通行止めになっていたので右岸歩道で明神を目指しました。途中でサルの親子に出合いましたが、子ザルがちいさくとてもかわいく感じました。

前日の大正池から河童橋までのコースと比べると、明神池までの歩道の方がややアップダウンがあり歩きごたえを感じました。サルを見たり景色の写真を撮ったりしながら歩いて、1時間20分位で明神橋のたもとに着きました。明神池はそこから少し戻った穂髙神社奥宮の境内にあります。拝観料をお支払いして一之池・二之池を巡ります。後ろにはそびえる明神岳、二之池の岩石と自然感満載です。

明神池鑑賞の後は、近くの嘉門次小屋で昼食です。名物のそばと岩魚の塩焼きを頂きましたが、自然の中で至福な食事でした。

梓川左岸歩道が集中豪雨の影響で通行止めなので、往路と同じ右岸歩道を河童橋上高地バスセンターに向かって歩きました。
1時間以上歩いたため最後の自分達へのご褒美にバスセンター横の売店でソフトクリームを買って食べました。生乳とクリームチーズのミックスは味の違いを感じることが出来てとても美味でした。疲れもいっぺんに吹き飛んだ、はずでした。
その後荷物を受け取ってバスターミナルに戻ると、バスを待つ人たちのすごい列が目に入りまた一気に疲れが戻ってきました。30分に一本のバスを3~4本待たなければならないかと覚悟しましたが、臨時便のバスが続けてきてくれて意外に早く上高地を後にすることが出来ました。

今回避暑を兼ねて上高地に来たのですが、美しい自然と涼しい日陰があり、2日で20,000歩近く歩くことが出来て、本当に充実した2日間でした。
とにかく、また来たくなる観光地でした。

白河の関~候補地が二つある?

白河の関

福島はもちろん初めてではありませんが、前々から再度訪れたいと思っていました。なので、いよいよ福島行が決まってからは、司馬遼太郎さんの「街道をゆく 白河・会津のみち、赤坂散歩」で事前勉強に取り掛かりました。
この本の最初の章は「二つの関のあと」というのですが、なにやら内容がが頭にスッと入って来ませんでした。「白河の関」は有名な関所ですが、候補地が2つあるというのです。私が「白河の関」を知ったのは、学生時代に「奥の細道」を学んだ際だと思いますが、それ以来「いつか行きたい」とは考えていても、「行く場所が実は確定していない」とは思いもよりませんでした。
そもそも「白河の関」とは、パンフレットによると「奈良時代から平安時代頃に機能していた国境の関で、当時は人や物資の往来を取りしまる機能を果たしていた」ものでした。その後、律令制の衰退とともにその機能は失われ、「都の文化人たちの憧れの地となり、"歌枕(和歌の名所)″」としてその名が残ったということです。
街道をゆく」では「名だたる白河の関の跡が二カ所あって、そのどちらがそうであるか、わかりにくいのである」と始められています。「往時、二カ所相連繫して防御線を布いたであろうから、白河の関とは二カ所の総称だという。あるいは、二カ所のうちの一カ所は、近世にひらかれた道で、従って古関とはいえない、という。 もっとも、新関といっても江戸時代、ずっとここに関所があった。」と続けています。
まず、国指定史跡になっている「白河関跡」に行きました。こちらは、昭和34年から5年かけて発掘調査が行われ、空堀・土塁・柵列の跡の他、縄文土器・土師器・須恵器等古代から中世にいたる遺物が出土したと言われています。市街から車で行くと、県道伊王野白河線を南下して「白河関跡」を少し過ぎた右側に駐車場があります。丁度白河神社の社務所の前あたりです。ここに車を止めて松平定信が建てたという「古関蹟碑」を見て、白河神社に参拝しました。拝殿の横に白河関を題材にした平安時代の著名な和歌三首を載せた歌碑を見ることが出来ます。三十六歌仙平兼盛中古三十六歌仙能因法師源頼朝に近侍した梶原景季の和歌が刻まれています。拝殿から別ルートで戻ると、その途中に空堀・土塁跡があり、ここが軍事拠点惠あったこと想起させます。さらに坂を下ると、鎌倉時代初期の歌人新古今和歌集の選者の一人である藤原家隆が手植えし奉納したという従二位の杉があります。幹が途中から二股に分かれた巨木で、その大きさに圧倒されました。その後、御朱印を頂こうと社務所に向かいましたが、平日は対応していないとの張り紙がありがっかりしました。
大和王権陸奥の勢力を阻むために設けたのが「白河の関」であるならば、空堀・土塁・柵列等があるこちらが、やはり歌枕ともなった場所ではないかと感じました。



次は車で10分少しの場所にあるもう一つの候補地です。「白河関跡」から白坂宿跡を抜けて、旧奥州街道を広げた国道294号線のゆるやかな勾配をのぼると低い峠の頂上辺りに「境の明神」と呼ばれる神社が二つあります。陸奥側の境の明神の隣にある駐車場に車を停めて、両方の神社を詣でました。歩道が特になく、白線があるだけで、大型車両がかなりの頻度で通るので、気を付けて歩く必要があります。二つの明神の内、一方の祭神は玉津島明神(女神・衣通姫)で、もう一方の祭神は住吉明神男神中筒男命)です。この両神は、国境の神・和歌の神として知られていて、女神は内(国を守る)男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づきまつられている祀られています。このためか、陸奥側(福島県)、下野側(栃木県)ともに、自らの側を玉津島明神を祀るとし、反対側を住吉明神を祀るとしているそうです。江戸時代には、前面の道が奥州街道でこの辺りに関所があったそうです。「街道をゆく」では、この道は「近世にひらかれた道」なので、平安時代の歌枕になるような「古関とはいえない」としています。


二所ノ関

相撲部屋に二所ノ関という部屋があります。その名称の由来も異説がありますが、この二つの境の明神からきているという話があります。再び「街道をゆく」を紐解くと、「二所というのは、神社にかぎっての用語」で、境の明神は玉津島明神(女神・衣通姫)と住吉明神男神中筒男命)が対になっているので「二所」という説明がなされていました。一方国道を渡った場所にある碑には、先程見学した国指定史跡の関趾とこの境の明神の二つで二所ノ関というようなことが書いてあります。
他にも、盛岡・仙台藩の藩境にあった鬼柳と相去の両番所二所ノ関とする説などがあるようです。

ミュージカル「この世界の片隅で」を見てきました

この作品が9年前に映画化された際、当時聴いていたラジオ番組で、戦争を扱いながらも反戦にも軍国主義にも流れずに、戦時下での庶民のありのままの日常・生活が描かれている、というようなコメントがなされていたのに興味を覚えて観に行きました。
確かに作品では、戦争に関するシーンが複数出てきますが、それ以上に個々の登場人物の気持ち・(当時の)社会常識・その常識への憤り・滑稽さを十分感じさせてくれたのを記憶しています。
この作品がミュージカルになりました。出演スタッフも昆夏美さんや大原櫻子さんなど実力のある有名な方々です。場所も日生劇場。観てきました。
良かったです。最初は時間が進んだり戻ったりするストーリーを、映画を一度見ているからついていけるけど、この話が全く初めてだと大丈夫かな、とひそかに思ったりしていましたが、物語が進むにつれてどんどん話の中に引き込まれて行って、そもそも他のことを頭に浮かべる余裕は無くなっていました。すっぽり物語の世界に同化してしまったようでした。
戦争の扱いに関しては、すずさんが右手を無くし、一緒にいた晴美ちゃんを死なせてしまうような悲しい場面や、故郷の広島に原爆が落とされた後母親が行方不明になり、父親が亡くなり、妹も病んでしまう場面があったりして、その悲惨さは表現されています。でも、それは反戦に直接結びつくのではなく、その後も含めた日常の当たり前の生活との対比で、やんわり、じわっとと、見るものに問いかけているように感じました。
レ・ミゼラブルのエポニーヌ役でしたし、昆さんの実力は十分わかっていたつもりですが、これぞすずさんだという姿を見せてくれました。心とおなかに響く力強さや優しさを自在に表現する歌声でありながら、会話はおっとりとしたすずさんそのもの。戦争下でありながらもやさしい世界を感じさせる、物語の世界へ自然にいざなってくれました。音月桂さんも良かった。晴美さんを亡くした直後はすずさんに強く当たりますが、一緒にいた娘を結果として死なせたわけですから仕方がないとも言えます。ただ、その後ですずさんに寄り添った言葉をかけます。さすが元宝塚トップスターだけあって歌も素晴らしかった。
久しぶりのミュージカル観劇だったのですが、やっぱり生の迫力はすばらしいと感じました。

「劇場版 鬼平犯科帳」を観てきました

昨日封切られた「劇場版『鬼平犯科帳 決闘』」を見に行ってきました。
今年は作者の池波正太郎さんの生誕100年にあたり、記念作品でもあるようです。
鬼平中村吉右衛門さんのテレビ番組をずっと見ていたのですが、単なるチャンバラはなくて、いつも何かを考えさせられるところがあって好きです。人間って、男って、女って、普段考えている訳はないのですが、ストーリーとさりげない出演者の会話によって考えさせられます。
あと、(時代遅れだとは思いますが)男のロマンとして、鬼平さんのように振る舞えたら、言えたら、考えられたら、どんなにかっこいいいだろうと感じてしまいます。実際は能力も実力も経験も遠く及ばないので、全く違うのですが、やはり憧れます。
平蔵だけではなく、まわりの人物、密偵のおまさ・相模の彦十・大滝の五郎蔵・小房の粂八・伊佐治に妻の久恵、与力・同心の木村忠吾・佐嶋忠介もそれぞれに魅力的で実によく脇を固めている。番組を見ても小説を読んでも設定の妙が感じられます。
ところで、テレビ・映画と小説とでは少し長谷川平蔵像が違うように感じます。小説では、結構危なくなるシーンもあるのですが、テレビ・映画の平蔵はよりスーパーマン的です。例えば、この映画の「決闘」というお話ですが、小説では平蔵一人でおまさを助けるのを躊躇(実際には踏み込みますが)しますが、映画では躊躇しているようには見えません。切りあいのシーンでも、小説ではもう少し佐嶋や酒井らの救援が遅れたら本当に危ない状況に陥っていましたが、映画では安心して平蔵を見ていることが出来ました。
松本幸四郎さんは、叔父である吉右衛門さんの鬼平を随分研究されたようで、言葉の運び方・声色の使い方など、画面を見ないとテレビで見ている鬼平のように感じられました。やさしく語り掛けたり、伝法な口調になったり、まさに鬼平節復活です。
中村ゆりさんのおまさもよかった。梶芽衣子さんで見慣れていたのですが、迫真の演技で目頭の熱くなる場面がしばしばありました。鬼平幸四郎さん)とのやりとりにも、吉右衛門さんと梶芽衣子さんのやり取りと似ているところと、少し違うけどおっと思わせるところがあって、そのバランスも心地よいものでした。
中村ゆりさんという女優さんは、不勉強で余り知らなかったのですが、今後どのような演技をされるのか楽しみです。
火野正平さんの相模の彦十も、あんなに江戸家猫八さんを見ていたにもかかわらず、これもありだなと思わせるところはさすがだと感じました。
ただ仕方がないのですが、テレビではどの俳優さんが誰の役と分かったいるので、そこを考えずにストーリーを追えますが、配役を新たにした劇場版ではそこで「誰だったっけ」と一度頭が止まり、ストーリーから頭が外れる瞬間がありました。
衛星放送でシリーズ化しているので、それを見ている人にとっては何でもないのでしょうが、見ていない者にとっては少しハンディがあったかもしれません。そうは言っても、次の瞬間にはそんなことを忘れさせてくれる娯楽作品になっていて、多くの人に見てもらいた作品でした。
今後のシリーズも見てみたいものです。