還暦おやじの趣味三昧

歴史とお酒、俳句と趣味にまつわる話をしていきます

近江 朽木 興聖寺庭園~戦国時代の絶え間ない争いに一服の清涼を与えた庭園

 

足利義輝(1536~1565年)といっても歴史好きな人でもなければ、知らないかもしれません。

室町幕府の13代将軍です。この方の時代、将軍といってもその威勢は地に落ちていた、といっても過言ではありません(もちろん、何らかの影響を限られた地域や大名に対して及ぼすことはあったのですが…)。

幕府は京都に本拠を置いていましたが、数代前から将軍が安定して京都に居ることが出来ない状況が続いていました。下克上の戦国時代です。義輝も11歳で父親から将軍職を引き継いだ頃を含めて、父である12代将軍(義晴)とともに、度々近江(滋賀県)を中心に難を逃れていました。

朽木に滞在した期間も長かったようです。義輝は、どんな気持ちで京から離れた朽木で過ごしたのでしょうか。京都奪還に燃える気持ちもあったでしょうが、将軍でありながら、やりたい政治の出来ないもどかしさ、人生が思うようにならないせつなさも感じていたでしょう。若くして亡くなった義輝ですが、当時の人たちは早熟でいろいろ感じていたはずです。

当時から朽木にあった庭園が、この興聖寺庭園です。父である12代将軍義晴がここに逃れてきたとき、当時従っていた管領細川高国がその気持ちを慰めるために作庭したといいます。義輝もここに逃れてきたとき、恐らくこの庭園を眺め傷ついた心を癒してもらったことでしょう。

義輝という人は、将軍でありながらただの貴人ではありませんでした。当時剣豪として名をはせていた塚原卜伝の弟子として武術に優れ、武士の棟梁たる将軍として武威を示すことの出来る武人でした。

その生涯は、戦乱に明け暮れたものでした。最初は細川氏と争い、その後は、細川氏の家来とそのまた家来でありながら、京都・大阪辺りで勢いを増し、主君である細川家を凌駕した三好・松永と争いました。そして、最後も三好・松永の勢力に二条御所を攻められての戦死でした。

その時に詠んだ辞世が「五月雨は露か涙かほととぎす我が名をあげよ雲の上まで」という句です。降りしきる五月雨は、何事もなできずに死にゆく私のようにはかなく消えゆく露だろうか、それとも私の無念の涙だろうか、ほととぎすよ、私の名を高めておくれ、雲の上まで、と詠みました。

ここは小学生の頃、司馬遼太郎さんの「国盗り物語」で知った場所で、「街道をゆく」でも紹介されていて、訪れたい気持ちが大きかったのですが、神奈川から遠く、仕事や生活で行くことが出来ずにいました。還暦を過ぎて、少し時間が取れるようになったので、ようやく願いを叶えることが出来ました。

次の句は、幼いころから憧れていた、足利義輝も眺めたであろうこの庭園を見ながら、彼の気持ちを推しはかって詠んだものです。

 

五月雨や武人癒せし寺の庭 煕史

 

自らの境遇に嘆いて、涙していた(五月雨)将軍義輝(武人)も眺め、その気持ちを癒した庭なのだなあ、という気持ちで詠みました。

 

興聖寺庭園

興聖寺庭園2