還暦おやじの趣味三昧

歴史とお酒、俳句と趣味にまつわる話をしていきます

越前 一乗谷 400年眠っていた城

司馬遼太郎さんの「国盗り物語」で、一乗谷明智光秀が将軍足利義輝に対して、北国の雄である朝倉氏の支援を依頼するために訪ねたところから出てきます。
「月さびよ明智が妻の咄しせむ」と芭蕉は読みましたが、光秀の暮らし向きは厳しかったようです。
そんな時、夫人が自らの黒髪を売って光秀の面目を保たせた、ということを詠んでいます。
一乗谷は、二列の小さな山脈に城を築き、山脈ぐるみで城郭化し、谷の出入り口に二つの城戸を設けることによって、守りを固めた城でした。そして、山々に囲まれた2㎞ばかりの谷地に、朝倉氏の居館や武士たちの屋敷、町人の店、職人屋敷、寺院等が並んでいました。
この城(街)は、越前平野の中心からやや離れていますが、国内での争いや隣国加賀の一向宗たちとの抗争があり、守りの固いところに本拠地を置く必要があったようです。
中心から離れているといっても、近くの足羽川九頭竜川を伝って三国湊にアクセス出来て、さらにそこから日本海側の各湊と交易をすることが出来ました。また、谷地を通る朝倉街道は京都に通じ、美濃に通じる街道も近くにあるという交通の要衝でもありました。
この地の利を生かして、北は蝦夷地から南は琉球まで交易をしていたようです。この街の繁栄が伺えます。
当時首都の京都は応仁の乱以降の混乱・戦乱によって荒廃し、貴族・僧侶・商人たちは地方の有力守護大名を頼って各地に下向していました。その一つが越前・一乗谷です。このため、文化水準も高く北ノ京などと言われていました。
光秀が訪れた当時、朝倉家の当主は義景でしたが、当家はその四代前の敏景(孝景)の時に越前の守護職を主家である斯波氏から奪取する下剋上をなしていて、北陸の雄として足利将軍家に頼りにされる存在でした。
光秀も、朝倉家に将軍家を助けてもらいたいと考えてここに来ていたようですが、中々態度をはっきりしなかったため、後に足利義昭はここから岐阜の織田信長を頼っていくようになりました。
その後、義景は信長と対立し、攻め滅ぼされてしまいます。
一乗谷の繁栄は約100年のものでした。
元亀4年(1970年)に朝倉氏が織田信長との戦に敗れ、街はその軍勢によって焼かれてしまいます。人々はこの地を田畑として利用し、約400年土の中に埋もれていました。当時の姿が少しづつわかりだしたのは、1967年に始まった発掘調査以降のことです。
今現地を訪れると、館の跡、街並み等が復元されています。きれいに復元されているのですが、やはり人はまばらです。当時1万人程度の人が住んで、都からも貴族達も集まってたりして、北ノ京とも呼ばれて賑わっていたことを思うと、今の静けさには一抹の寂寞感が漂います。
次の句は、この寂寞感を詠んだものです。

行く秋や土に眠りし北ノ京 煕史

一乗谷・唐門
一乗谷・朝倉館跡